幕府とは何ぞや、ってまったりと議論しませんか?
引用元: ・いいくにつくろう鎌倉幕府
確かに実質的には1185年に政権が出来ていたかもしれないが、それは高校レベルで注釈として補足しておけばよいこと。
朝廷の果たしていた役割を、ことさら矮小化しようとする悪だくみを認めてはいけない。
現代だって、運転免許試験に合格したという事実だけでは不足。免許証が交付されてはじめて運転が許可される。
幕府の本来的意義は戦場に張る本陣を囲む幕のこと。中国風には柳営と言う。つまり天子から
軍事の全権を委任された将軍のいる本陣こそ幕府である。軍事氏族が源氏のみになった
1185年に日本で幕府がようやく1つになったと捉えればいい。それまでは2つあったのだ。
今では中世史の研究家で守護・地頭を制した段階が政権の成立期であるとする学説が通説だし、
頼朝が求めた地位が征夷大将軍職だったわけではないことも分かっている。朝廷側は頼朝の要求に
右往左往したということも伝わっており、決して好意的に将軍職を宣下したんじゃないから。
摂関家が分裂し、九条兼実が頼朝の肩を持ったのも大きい。
幕府成立に摂関家の争いが味方したのは皮肉だ。
京都から来た政治顧問の大江広元あたりの入れ知恵と思われる。
頼朝以降の将軍が就任したのは単に創業者に倣ってだろう。
4代九条頼経は鎌倉下向後7年を経てようやく将軍になっている。
まあ幼少だったのが理由だろうが、将軍不在でも用が足りたわけだ。
鎮守府将軍・平泉藤原氏を倒す口実として、同職を上回る肩書きが必要だったのだが、それも一瞬のことだったため。
奥州征伐は1189年でしょ
征夷大将軍になったのは奥州征伐より後だが。
頼朝はそんな苔の生えた官職などどうでもいいと思っていただろう。
頼朝の力の源泉は日本国惣追捕使・惣地頭の両職。征夷大将軍など
任命されても兵馬の動員が出来なければ何もできん。
それから頼朝以降の鎌倉将軍は皆征夷大将軍になってるし。
京都から来た政治顧問の大江広元あたりの入れ知恵と思われる。
頼朝以降の将軍が就任したのは単に創業者に倣ってだろう。
4代九条頼経は鎌倉下向後7年を経てようやく将軍になっている。
まあ幼少だったのが理由だろうが、将軍不在でも用が足りたわけだ。
征夷大将軍は朝廷からはなれた遠征地で、朝廷の許可なく裁判処断を行使できるからじゃないの。
徳川幕府の頃あたりからだったみたいね。頼朝も北条氏も幕府を開いたという認識は持ってなかったって。
政権についても朝廷に対抗する意識はそんなに強くなくて(せいぜい鎌倉暦作ったくらいで)、
朝廷側の方が鎌倉武士団の政権を強く意識していたみたいだよ。
朝廷側が勝手に承久の乱を起こし自滅した観はあるね。
今までの武士は朝廷に擦り寄って来たのに、頼朝がそうしないので
ニュータイプの武士の扱いに戸惑ったのだろう。
高橋昌明先生が「六波羅幕府」「福原幕府」を主張されてますよね。
今度の大河が「平清盛」で、しかも高橋先生は時代考証だそうですから、
そうした説はますます注目を集めるように思うのですけれども、どんな
ふうに受けとめるべきなんでしょうか?
とくに、関西の方にお聞きしたいです。
幕府という名称より、最高権力の所在がどこにあるかが本質だと思う。
清盛は院政停止を行っているし、後白河を鳥羽殿に軟禁しているから、
事実上の最高権力である。故に六波羅幕府と言っても差し支え無いだろう。
そもそも後白河の登極は、息子である守仁親王を即位させるための中継ぎであった。
故に守仁(二条)崩御後の後白河に政権を主催する根拠が無いのである。
治天の君は時代によってポジショニングが違ってるから。
単なる上皇から院政で最高権力者なった人までいたから。
複数いる上皇のうち、政権をもってる人が
治天の君じゃないの?
そうじゃなきゃ、「治天」って表現使わないんじゃない?
会社の経営を握る力を持っている人も居れば単なるお飾りな人も居るみたいな
頼朝が鎌倉から動かないのは理にかなっている。都から離れていても権力を行使することのできる官職は
征夷大将軍くらいしかないな。
頼朝は右大将として権力を行使したのでは?
実朝は右大臣にまでなったし。
もし実朝に子孫が続いたとしたら、
清華家としての家格を獲得したかも知れん。
そんな慣例家康から。
え、じゃあ家康は誰に習って取得したの?
どーん、蝦夷征伐隊隊長は中華思想からみた東夷征服隊の延長です。
倭寇も一緒です。
朝廷に従わなかった蝦夷が関東武士です。
京の王家の血筋者を立てて反乱を起こしました。
相模武士団は京の倭国本山に実力を認めさせて全国に赴任していく。
そして京朝廷はそれをコントロールする者として
源氏を蝦夷征伐隊総帥に任命する。
そしてその婿源氏は地元北条氏に安楽死させられ、
以下、形だけの源氏でもない征夷大将軍を京から受け入れながら
全国勢力としての蝦夷、関東武士の北条氏が支配する。これが鎌倉政権。
他方徳川は血筋なき覇者だから権威で自己を補強した。これしかあるまい。
幕府というのは江戸時代末期に倒幕派が公儀を指して使った隠語だ
藩というのも明治になってそれまでの大名領をそのまま行政単位にした
ときの名前で一年ほどで廃藩置県
江戸時代に藩というものは無かった
だから長州藩というのはなかったし
拙者は長州藩士何々と申す などと言わなかった
じゃなんて言うの?
「拙者は毛利家家臣、何某」とか?
「某は松平大膳大夫が家中」とか言う
全国の大名の官職を記憶しないといけないから大変だね。国替えも発生するし。
たしかにこれじゃあ分かりにくいので、時代劇の考証でアウトだわ。
その呼称が定着したのは明治になってから。
少なくとも当事者が自称したことはない(江戸時代に至るまで)
政権を指す学術用語として使われるのは明治以降
征夷大将軍
後白河が認めなかったのは畿外にあって独断専行で検断権を行使できる権能を持つため
頼朝の辞任は大姫入内運動との兼ね合いだろう(権大納言、右大将辞任とは意味が異なる)
鎌倉で頼朝の政治顧問やってたんだって?
面白いな
幕府も出来たころの院と同じで、家柄が低くて出世できない貴族の勤務先だった。
だから院も幕府も朝廷と併存できる。決して単なる暴力装置ではない。
鎌倉幕府滅亡の際の戦闘も中先代の乱も時行から鎌倉奪還した尊氏の鎌倉入りも
数日で勝負がついている。
鎌倉が攻めにくく守りやすい土地ならば、これほど次々と陥落することはあるまい。
そもそも鎌倉が城塞的な都市であることの根拠は少ない。
鎌倉を戦場とした和田合戦、宝治合戦、霜月騒動などは鎌倉の市街戦であり、
天然の要塞にふさわしい合戦は見られず、宝治合戦の折に、三浦氏が切通や
切岸で苦戦したという話も聞かない。
三方山が城塞の役目をしていたのなら、山の外に建長寺や円覚寺
時頼が私寺の最明寺を建立したのは違和感を覚える
段葛の遠近法を利用した作りも徳川秀忠が再建した当時にヨーロッパで大流行した手法で
当時の作庭のほとんどに関与していた小堀遠州も西洋人から勉強しており段葛で実戦した
釈迦堂切り通しや大切岸などは明治時代の石切り場だったのが定説
極楽寺周辺は砦でもなく海運を掌握していた経済的側面が強い
鎌倉が城塞的な都市だというのは武士の都であるがゆえのイメージでしかない
鎌倉幕府の滅亡の時。
幕府の水軍が戦闘した記録がないみたいだが
幕府は水軍を活用すればもうちょっとは粘れたんだろうか?
新田勢の三木俊連が極楽寺坂の裏から忍び込み火を放った
→稲村ケ崎を守っていた北条軍の軍船がつられて移動
→新田義貞が稲村ケ崎の引き潮を利用して鎌倉府内へ侵入
稲村ヶ崎に水軍が入れば、もうちょっとは粘れたのか。
まあそれでも幕府は倒れただろうが。
鎌倉様とか鎌倉殿、と言われていた、という説
を聞いたことがあるが。
江戸時代には、実際そう呼ばれていたしね。
>>1
さて、鎌倉幕府だが、NHK高校講座では次の4説を採り上げていた。
1.1180年説 頼朝挙兵、侍所の設置
2.1183年説 東国支配権の公認
3.1185年説 全国への守護・地頭設置権の公認
4.1192年説 征夷大将軍への補任
最近は教科書などで3説が多いが、この頃の頼朝の政権はまだ発展途上。
個人的にはいいクニの4説(1192年)を支持したい。
そして幕府が武士たちの所領の領有権を保証する実力をもったときが、鎌倉時代の始まりといえる。
ある日、あるとき、頼朝がおごそかに鎌倉幕府の成立宣言を読み上げたことなど一度もなく、
そもそも当時、「鎌倉幕府」ということばが存在しなかったからである。
A説 1192年 頼朝、征夷大将軍となる
B説 1190年 頼朝、右近衛大将となる
C説 1184年 公文所・問注所の設置
D説 1180年 南関東に軍事政権が成立
E説 1185年 頼朝、日本国総追捕使となる(いわゆる「守護・地頭」の設置)
F説 1183年 十月宣旨の獲得
わたくしは以上のうちA・B・C各説はいずれも現在、ほとんど問題にならない、と考えている。
のこるD・E・F説は、それぞれに鎌倉殿を首長とする軍事政権成立の各段階をとらえているが、
ここでは一応、なかでもその成立をもっとも早くおくD説に従っておく。
たとえ地域的にはまだ南関東一帯にしかすぎなくとも、このときすでに
鎌倉殿をいただく軍事政権としての特徴は出そろっている、と考えるからである。
むろん、それはE・F両説があやまりだ、ということを意味しない。
その根拠となった事実は、どれもたしかに重要な目じるしであり、
幕府は1180年末にひとまず「成立」したとしても、内乱のなかで成長をとげ、
1183年十月宣旨をへて、1185年11月末にいたってようやく「確立」した、というのが正しいだろう。
(石井進 『日本の歴史』)
いい国を作ろうとしたわけでは無かったって事?
色々解釈が出来て諸説出来たって事
説は1185と1192だけじゃ無く
1180~1192までの間にたくさんあるな
平氏政権や織豊政権を幕府にカウントしてもいいと思う。頼朝 尊氏の将軍職補任は、
政権の実態が成立した後の称号授与みたいなもんで、政権の承認ではないし。
徐々にって感じになってるな
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コメント一覧
※ 1.
名無し
2014年03月12日 19:23 ID:hL0JMUm1O ※このコメントに返信する※
(e/d)
いまさらすぎる
※ 2.
私は名無しさん
2014年03月12日 20:18 ID:qZV2usEK0 ※このコメントに返信する※
(e/d)
本スレ3は天皇マンセーのコヴァヤシヨシノリが言ってたことそのままだな
どっちでもいいよくだらねえ
※ 3.
私は名無しさん
2014年03月12日 20:40 ID:lq4vTzR10 ※このコメントに返信する※
(e/d)
幕府:征夷大将軍を頂点とした全国規模の武家政権
征夷大将軍を頂点とした・・・という前提条件があるなら、鎌倉幕府も 頼朝が征夷大将軍になった年からというのがスジだとおもうがな。
家康が成ったのは1603年。それ以降が江戸幕府。関ヶ原の戦い以降が江戸時代じゃないし。
※ 4.
私は名無しさん
2014年03月13日 17:08 ID:ytrpTnjq0 ※このコメントに返信する※
(e/d)
何も無いところにいきなり鎌倉幕府が出来たわけではなくて
源氏が徐々に勢力を伸ばして最終的に全国規模の政権になったんだろ。
だからこういうのは決めの問題であって、決めの問題であるからこそ
政権を認めさせた時である1192年が正式な「鎌倉幕府の成立」。
認め「られた」ではなく認め「させた」。
ここを勘違いするから実質的にどうのこうのというややこしいことになる。
※ 5.
私は名無しさん
2014年03月17日 00:52 ID:tn.TEanA0 ※このコメントに返信する※
(e/d)
源頼朝による全国統治は1185年に実質的に始まったとして良いが、
幕府が名実ともに日本の支配機構として認められたのは間違いなく1192年。
異論は認められない。「征夷大将軍」というお墨付きをもらって初めて
「鎌倉幕府」が成立したと見るべき。1185年説は頼朝がいまだ「権威」による認証を
受けていない以上画竜点睛を欠くと言わざるを得ない。最近の学説は
権力と権威を分離した優れた日本の国体を無視したものばかり。
その底意には左翼学者の天皇の「権威」を否定したい意思が働いているのだろう。
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